夏の文学教室

本日より一週間、有楽町よみうりホールにて、日本近代文学館主催、第42回夏の文学教室「愛をめぐる物語」を受講。一週間連続で13時〜16時半まで、どうしてこんなに仕事を休めるのかというと、うまい具合に上司の出張と重なったから。嫌味もいわれたけど、午後半休にすることと、夕方会社に戻ることを条件に休めることになった。

本日の講義は、川本三郎さん「下町の感受性 宮部みゆき原作『理由』について」、島田雅彦さん「ジャパニーズ・ウェイ・オブ・ラブ」、藤田宜永さん「『雪国』と恋愛の不可能性」。印象に残ったことを簡単に。

川本さんが最初におっしゃった。「私は恋愛にあまり興味がない。世の中には恋愛以外に楽しいことがたくさんある」。わかるところがあるなぁと思ったのは、自分も小学生の頃、「世の中には恋愛以外のことがたくさんあるのに、なぜ歌謡曲は恋愛のことばかり歌うのだろう」と考えたことがあったから。それにしてはその後、恋愛に興味を持たなかったわけじゃ全然ないけど。宮部みゆきさんについて、恋愛に重きをおかない、さっぱり型の作家だと話した。下町の感受性として、「法と情がぶつかった時は、情の方が大事だ」という価値感覚を説明してくれた。私は推理小説に対して昔から興味が持てないため、宮部さんの作品をおそらく一作も読んだことがなく、あまり良い聴衆ではなかったと思う。

島田雅彦さんは、以前三島についての講演会に行ったことがあったので、二度目。滑舌良くシニカルで、度々笑わせてくれる。最近の「純愛ブーム」について、12年に一度、純愛小説が流行るそうで、12年前は『ノルウェイの森』だったそうだ。「私も便乗してやろうかなと思いましたが、逃してしまいましたので、12年待とうと思います」と言ってた。自分自身について、「水とタンパク質とスケベ心で出来ている」と言っていて、ギリシア神話を引用しながら話してくれた内容も、なんだか笑える結論にばかり帰結して面白かった。

今日の講義の中で一番「文学」らしかったのは、(あくまでも自分にとって)、藤田宜永さん「『雪国』と恋愛の不可能性」の講義。『雪国』は、私が大好きな小説なので、その感想や解説を聞くのは、とても面白かった。作品が好きでないとか、読んだことがない人には、あまり面白くなかったかもしれないけど。

まず、『雪国』の登場人物「島村」について、仕事をしない、何もしない「高等遊民」であると説明。現代では、そういう人物設定は難しいという。ヒロインの駒子については、「高潔であり、筋の入った女」だと表現した。小説の最初から、「二人は一緒にならない」ということが、島村も駒子も分かっている、「恋愛の墓標が見えている小説」だという。そして雪国という異界で、ふたりはあそぶ。「最初から失恋がわかっているから、非日常的なところで遊びましょう」という小説なのだ、と。だから真剣なんだけど、あそびがある小説で、それは今の若い人たちが出来ない形だとも言った。今の人はすぐに先のことを考えてしまうから、と。

小説の中に繰り返して「徒労」という言葉が用いられていて、何度も改版されたこの小説は一度、『徒労』というタイトルで出版されたという。「徒労、美しい徒労」というキーワードが、小説全体の基調となり、島村もまた厭世的で、徒労感を持ちながら生きている人物であると話した。そして人間には、「生きることが大好きな人」と、「生きることがあまり好きじゃない人」がいて、川端は後者であったと述べ、近代文学の大御所には後者の人間が多いと言い、安吾、太宰の名前を挙げた。

『雪国』の中に描かれる風景は、そのまま彼の心象風景でもあると話していて、共感した。『雪国』の島村も駒子も、恋愛をしながらクールで明晰で、熱い情熱を抑えながら、恋愛の不可能性をギリギリまで描いた名作であるとまとめた。