ジャン・コクトー著『エリック・サティ』坂口安吾、佐藤朔 訳

エリック・サティ

坂口安吾エリック・サティの本の翻訳があることを、私は昨年知ったのですが、安吾アテネ・フランセに通っていたので、フランス語ができたのですよね。

坂口安吾昭和6年5月、同人誌『青い馬』に於て、『音楽に於て我々は世界中で唯一サティを選ぶ』と宣し・・・」と本書表紙に記載があります。
坂口安吾による翻訳より

ある作品を愛するためには、新しい精神状態に自分を置かなければならない。他の作品によって批判してはならない。批評家達の最大の欠点は、芸術の新しい表現に興味を寄せる批評家達でさえ、その作品の価値は感じる、しかも尚、在来の表現と矛盾する点は、すべて欠点であり稚拙であると看做すことである。独創は、この距りの中にのみ存在する。それ故、どの時代にも、新精神は反撥精神の最高の形であると言ってよい。

一つの傑作の中には、千の複雑した探求、千の原形質、千の下描き、千の手探りが結晶している。

以降、坂口安吾による補注より

サティは言った。「芸術への精進は、絶対の拒否の中に生活するように、我々をうながす」と。そして彼は、常にこの拒否の中に生活し、最も純粋な、そして最も厳粛な音楽をつくった。そして、人を笑わせるために、そして人を笑うために、道化た題名をつけた。だから人々は苦虫の陰にある透明な彼の魂を気づかずに、いつも笑っていた。(マキシム・ジャコブ 『サティの教訓』より)

ドビュッシイは彼の輝かしい一生の間、常に落伍者であったサティへ人の想像も及ばない敵意を持ちつづけていたのだった。ドビュッシイが一生涯頭の中に隠しておいたただ一人の敵はサティであったのだ。落伍者サティの真価を、一番早く、一番よく知っていたのは、成功者ドビュッシイであった。そしてその敵意が、料理店クル時代の友情以来、会う度に二人の会話を変に皮肉なものにした。ドビュッシイはいつもサティにいやがらせを言うのだった。そしてサティは――彼も亦ドビュッシイの価値をよく知っていたので――冗談めいた口振で彼をほめたり皮肉ったりしていた。二人の友情がこんな悲しい破綻をもたらしてから間もなく、ドビュッシイは死んだ。一九一八年。そしてその後、ドビュッシイの嫉妬甲斐もなく、サティは落伍者に逆もどりしてしまった。ドビュッシイとサティのこの物語は、ドビュッシイの最もよき味方だったルイ・ラロアが、彼の著書に書いている。

引用されているマキシム・ジャコブの本も、ルイ・ラロアの本も、原著を読んでいないので、本当にそうだったのかなぁ…と思う面もありますが。以下も安吾による補注

一つの音楽は一つの青年しか持たなかった。音楽は常に新陳代謝し、今日の音楽は常に今日の青年の音楽でしかなかった。しかし永遠に青年である音楽が生れた。エリック・サティの音楽がそれである。サティの教訓!それは常に青年のものだ。一九一九年、サティは最初の青年達に発見された。そして彼をとりまく第一次のグループが出来た。それが今日のフランス音楽をつくった。六人組がそれである。

サティの音楽は、19世紀半ばまでのショパンに代表されるロマン派の音楽のように、上流階級のきらびやかなサロンの中で演奏されていた音楽から一般化して、市民生活の中での喫茶店(社会的な規律や規範から、少しはずれたボヘミアン的なところ)で演奏された音楽であり、20世紀の現代音楽の出発点のひとつである。…と、現代の作曲家の方から教えて頂きました。