「愛をめぐる物語」二日目

日本近代文学館「愛をめぐる物語」二日目の講演。最初に、藤井淑禎さん「冬ソナとセカチュウが受けた本当の理由」。書くまでもないかもしれないが、「冬ソナ」とは「冬のソナタ」で、「セカチュウ」は『世界の中心で、愛をさけぶ』。藤井淑禎さんは立教大学の教授で、ニコニコして感じの良い先生。『純愛の精神史』という著書があるそうだ。

「冬ソナ」について、映像の美しさ、音楽の使われ方、演技の基礎などがしっかりしていて、韓国のドラマの中でも傑出した作品だとほめていた。私は一度も見たことがなく、ストーリーも知らなかったのだけど、あらすじを説明してくれた。結構入り組んだ話だなと思った。

セカチュウ」については、これも私は読んでいないのだけど、「かつて我々の周りにあった風景を背景にして純愛があり、近年、歌やドラマの中で自然が描かれることが減っている中で、自然と共存する世界に、無意識に惹かれたのではないか」と話していた。昭和39年に出版された『愛と死を見つめて』という本に触れ、それを純愛の書でもあるが、望郷の書でもあると説明した。

二人目の重松清さん の演題は、「同じ場にいるということ」。最初、「愛ほどうさんくさいものはない」「美しい愛は素晴らしいという気持ちもあるが、そうそうロマンチックなままで、人間は終わらないぞ」という気持ちがあると言った。

純愛ものがベストセラーになる風潮は怖いと言い、愛について皆が同じ考えでいると、変なところに持っていかれると思うという。愛を語る人が一色単になったり、純愛小説を批判する人が、作品を読まずに批判するのは、とても寂しいと話した。

話しながら途中、「僕は、恥ずかしいんです・・・愛だなんて!」と叫び、会場に向かって、「この中で、愛してる、愛してますと言ったことがある人は、手を挙げてください」と質問した。挙げたのは1人。すかさず、「使ってもないのに求めるなよ!」「何となく皆で共有するものを、うさんくさいと思いませんか?」という。そういいながら後半、結構熱心に「愛」を語っていたような気がしたけれど。

「愛という字は、心を受けると書くのです」(これって看護学校の時、年下の子が読んでいた漫画に書いてあった台詞で、感動した彼女がすぐに私に教えてくれた…)といい、自分の心に相手の心を受け入れたい、自分の存在を相手の心に受け入れて欲しいということなのです、と。愛が成立するためには、自分以外を受け入れるスペースが必要で、(なーんか書いていてこっちがハズカシイじゃん、重松サン!)先に自己愛で埋めてしまったら、受け入れるスペースがなくなる。との由。

愛を考える対象を、男女に限定するのではなく、もっと大きな面からとらえていくことが大事、人を愛するのは、「同じ場にいたい」という気持ちになること、恋には失敗はあるが、愛に失敗は無い、等々。

まぁ、当たり前のこと言ってるなぁと思ったり、論理が飛躍していると感じたところもあって、ところどころ面白かったかな。根は良い人だと思うけど、もうちょっとひねりがねぇ・・

三人目は、津村節子さん『智恵子飛ぶ』についての対談。今日はこれを楽しみにしていた。本に書いてある内容の話も多かったのだけど、それ以外に少し気になったことがあった。

この本は、高村光太郎の妻、智恵子に焦点をあてて書かれている。津村さんは、昭和16年に出版された『智恵子抄』を、昭和18年に読んだという。生きる目的は当時、戦争に結びつくことばかりで、自分の夢や希望を描くことができない時代だった。そのような時代に読み、「このような形の愛があるのか」と、とても衝撃を受けたという。

『智恵子飛ぶ』は「評伝小説」なので、間違ったことを書けないと津村さんが話した。小説の組み方として、事実と事実を海の島のように浮かべ、それを繋ぐ橋を想像して小説を作り上げたという。しかし話を聞きながら思ったのは、読者は、海の島のように浮かべられた事実と、つなげられた橋の虚構とを、区別することができない。本を読み、自分が事実だと思っていたことが、津村さんの口から、事実と事実を繋げるための橋だったと話された時、がっかりしてしまったのだ。事実を緻密に調査したということを強調しておられたが、少しでも架空の話が入っている場合、読者はそれをどう区別し、理解したら良いのだろう。最初から事実とは無縁の小説として読めば、問題はないのだろうが。

津村さんは、夫の吉村昭さんと暮すことにより、智恵子が光太郎に対して抱いたであろう屈折した気持ちを理解したと話していた。本の中でも度々描かれ、読んだ時は今ひとつそれが分からなかったが、「光太郎は光太郎なりに、智恵子を精一杯愛していた。しかし、智恵子の屈折した気持ちを理解することができなかった」と言われれば、共感できる。思いつつそれは、光太郎と智恵子の問題と限定できるものではなく、人間の持つ、解し難い問題であるとも思う。