丸木美術館へ


「原爆の図」作家、丸木位里(まるきいり)・丸木俊(とし)夫妻の丸木美術館へ行く。絵本などで見てきた「原爆の図」の原画を見ることができた。池袋から東武東上線で約1時間。「森林公園駅」より車で約10分と、交通がやや不便で、日中は暑かったが、購入したいくつかの冊子を読みながら帰宅し、有意義な一日になった。

丸木位里は1901年広島に生まれ、戦前から水墨画を描く画家だった。丸木俊は1912年生まれ、油絵が専門の画家で、1941(昭和16)年に位里と結婚した。1945年8月6日の広島の原爆投下時、二人は埼玉県に疎開していたが、投下3-4日後に位里が広島入りし、その一週間後に俊が広島へ着いた。そして夫妻は、体調を崩すまで約1ヶ月間広島に滞在し、原爆の惨状を見た。

1948年の夏のある晩、二人はどちらともなく「原爆の図」を描こうと決意したという。原爆の図は全部で15部の作品で、一作一作が大作である。1950年に発表された「原爆の図」第1部「幽霊」は、大きな反響があったという。

アメリカ軍の占領下にあって、原爆の被害状況についての情報がほとんど公開されていなかった時代です。「この絵は実際より大げさに描いているのではないか」と言った人もいたそうです。しかし、広島や長崎で原爆を体験した人たちからは、「この絵は、きれいすぎる」とまったく反対の反応があったそうです。
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原爆というと、”きのこ雲”や、世界遺産の”原爆ドーム”を思い浮かべる人も多いことでしょう。けれども、丸木夫妻の『原爆の図』には、”きのこ雲”も”原爆ドーム”もまったく登場しません。それでは何が描かれているのかというと、”きのこ雲”の下で地獄の炎に焼かれ、死んでいった人間の姿なのです。丸木夫妻は、原爆によって命を奪われたひとりひとりの人間の姿を、しっかりと描き残したいと考えたのです。
「原爆の図 丸木美術館 ミニガイドブック」より


丸木夫妻はその後、『南京大虐殺の図』『アウシュビッツの図』『水俣の図』『沖縄戦の図』を完成させる。1985年に制作した『地獄の図』には、「私たちも戦争を食い止めることができなかった」という痛恨の思いとともに、丸木夫妻自身の姿も地獄の中に描かれている。二人の共同制作の現場は、緊張感にあふれたものだったという。

いままで考えないようなことが画面の中でおこったりするのよ。それは私だけではできないし、位里だけでもできない、何かができる。そういうことがおきる。面白いねえ。ふたりの力量以上のものが生まれたりするの。そういうときは嬉しいねえ。生きててよかったねってぐらい嬉しい。われわれは老人になっていくのに、まだ進歩してるって思うの。嬉しいよねえ。
本橋成一写真集 ふたりの画家』より、俊の言葉


丸木位里は、1995年10月18日に永眠、享年94歳。丸木俊は、2000年1月13日に永眠、享年87歳。私がいつか丸木美術館に行こうと思ったのは、10年以上も前だ。その時ならまだ、お目にかかることができたかもしれないのに。夫妻の死後、来館者数が減り、現在では美術館の存続が危ぶまれているという。

丸木美術館の2階には、「小高文庫」と名づけられた夫婦のアトリエ兼書斎が公開されている。本棚があって、じっくり背表紙を見させてもらった。庭の一角には「原爆観音像」がある。広島市被爆した丸木位里の実家の建物の一部を移築して建立したものだという。今日は「ひろしま忌」参加者によって灯篭が制作され、夜には美術館のすぐ側を流れる都幾川(ときがわ)で、灯篭流しが行われる。写真は、前に灯篭が並べられた「原爆観音像」。