荒川洋治×蜂飼耳トーク

神保町東京堂書店にて、荒川洋治さんと蜂飼耳さんのトーク。会場に急ぐときのドキドキ感&いそいそ感は、なんだろう。蜂飼さんは、1974年生まれの詩人。

荒川さんは身体があまり良くないそうで、書く仕事は、自分が書かなければいけないと思うもの以外は、ほとんど断っているという。その代わりに話す仕事が増えている。「書くことに飽きたんだと思う」とも。

荒川さんの詩集『空中の茱萸』に「完成交響曲」と題した詩があり、岡本太郎浜田幸一の対談をテレビで観てのことが描かれている。その話をしていた。「芸術に理解のない」浜田さんが、岡本太郎に正直にぶつかるたび、太郎は懸命に「芸術」を繰り返す。観ていた荒川さんは最初、「岡本太郎がんばれ」という気でいたが、徐々に「ハマコーがんばれ」と思い出す。負けようとも懸命に話す岡本太郎のような芸術家の姿が、いま見られない。「言葉を考えて説明する中で、すごい言葉が練られていく」と、荒川さんは言う。

田村泰次郎石原吉郎の名を挙げ、戦争という極限の時代に、人間の様々な面が見えてくる。そこから盛り上がるのが「戦争文学」だが、残るものと、残らないものがある。普通に戦争を訴えていたら、戦争は残せない、普通の戦争文学は消えていく、と言った。

科学者であり文学者でもあった中谷宇吉郎について、「理と文が連合すると、これほど良いものになるのか」「文章の見本と思っている」と荒川さん。「実験室の記憶」という作品について話してくれた。

荒川さんが高校生の時に、梅崎春生著『幻化』を読んで感動し、先日また読み返したという。「名作は、読み返すのが怖いんです」と話していて、この気持ちは、ものすごくよくわかる。昔感動したことが、色褪せているのではないかと怖いのだ。でもこの作品は、「ひとつひとつに神経が通っている良い文章」で、やはり良かったという。読みたい。

萩原朔太郎について、「真剣さとは、こまっしゃくれたことを言うのではない。本当に考えていること、本当に戦うこと」「書きたい詩を書いたらだめ、書くべき詩を書かなければならない、それが朔太郎から伝わってくる」と。

詩は、個人の言葉であり、個人を最終的に守ってくれる言語だという。現代は、自分の中に求めていく言語ではなく、スーッと入ってすぐに分かる言語しか受け入れられない。スーッとした通りの言語世界を見ていると、複雑な世界に目を向けようとしなくなる。ちょっと溶けにくい言語もいいんだよなーと言っていた。

他にも、編集者の話、本の装丁の話、詩の朗読について(荒川さんは否定的)、日本語について等々。熱く力んだ話に、時々共感できないところもあったけれど、心が柔らかいと感じる瞬間があり、好きだと思いなおせる。だけどこれは、荒川さんの外行きの顔。例えば食事をしながら、親しい人と、普段どんなふうに話しをするのだろう。

手紙を書こうかと迷っていて、途中の文房具屋で便箋を買った。会場の隅で短い手紙を書いて、サイン会で渡した。サインを頂いたのは、『世に出ないことば』。
世に出ないことば

蜂飼耳さんの『食うものは食われる夜』にもサインを頂いた。装丁が凝っている。中は一見、よくわからないけど、見開いて読んだら、性のにおいが強くした。ような気がした。