『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』 太田治子

明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子

今まで読んだ太田治子さんの著書の中で、いちばん読み応えがあった。過去の著作と比べたら、治子さんの力の開放を、初めてみるような気がした。心を剥いて目を剥いて、両親のことと正面から向きあったのだろう。読みながら色々な思いがぐるぐるまわって、別世界に迷い込んでいくような気がした。

静子さんが切り捨てた「汚点」となった『あはれわが歌』のページ。
太宰の長男、正樹さんの名前の、ほんとうの由来。
フランスの映像作家、ジルさんとマリーさんのこと。
太宰と静子さんのこと・・・

今だからこそ、書けたのだろう。若いときには書けなかった。断片的にしか伝えられてこなかった静子さんの姿を、治子さんの手で書き残してくれて、本当によかった。静子さんは、太宰に対する細かな想いまで、治子さんに伝えていたから。
治子さんの、とりわけ、太宰に対する、冷徹な目。ずいぶんとまぁ太宰は、お得意の透き通るような殺し文句で、いろんな女の人の心をひっかきまわして、恋をさせ、よい小説を、残したのね。そんなふうにも思えてきた。

「日記がほしい」
「赤ちゃんがほしい」
花いちもんめの遊びのようにそれぞれの思惑が働いて、私が生まれた。もし太田静子が日記を書いていなかったら、太宰は下曽我ゆきをためらったかもしれない。一方母も彼が小説家だったからこそ、赤ちゃんを生みたいと願ったのだった。恋のときめきは、実は彼の抱えた芸術に対するものであった。そのことに、咲き始めた梅の花をみつめながら改めて気付いたという。しかしその時いくら太田静子が否定しようとも、太宰治その人へのときめきがあったからこそ「赤ちゃんがほしい」と願ったことははっきりしていた。

(太宰は)もし反対に相手が少しでも自分のことを茶化して話していたとしたら、青ざめた顔で絶交を言い渡したのに違いなかった。「だから、人は信じられない」。そうはき捨てるようにいうだろう。その言葉は、まず自分に向けられるべきだった。人一倍誇り高い人間太宰治は、他者となる人間にもそれぞれ誇りがあることに気付こうとしない傲慢さがあった。

成り上がりの津島の紋がそんなに誇りだったのですかと聞いてみたくなる。『東京八景』の中で、「家の大きさにはにかんでいた」と書くいやらしさを思い出すのである。およそ一年前に発表をした『鷗』という短篇の中で自分のことを、かの見るかげもない老爺の辻音楽師に近いと書いているのとは正反対の力みようだった。この矛盾が太宰の特質であると思う。

それでもそれでも、太宰は素晴らしい作品を残した。
「小説こそわが命と思っている」「最後迄小説を最高の恋人として死んでいく覚悟なのだ」「太宰治は最後には自らの文学に殉じて自らの意志で死んでいったのである」。治子さんはこのようにも書く。

「眠るようなロマンスを書きたい」。『斜陽』についてそう語っていた太宰のロマンスは、静子さんとの現実の恋にあったのではないかなぁとも思った。

私も少し年をとり、静子さんの生き方に惹かれた気持ちは、いつしか遠くなりました。太宰を好きな気持ちは、ずっと変わらないけれど。