小泊の思い出

私も、小泊に思い出がある。もう大分昔のことなのに忘れられない、大切な思い出。

私が最初に津軽を訪れたのは、今から20年以上も前なのだが、斜陽館に宿泊し(当時はまだ旅館だった)、翌日、バスで小泊へ向かった。清々しい秋晴れの日だった。

途中、バスの窓から美しい湖が見えた。湖の名前を知りたかった私は、なんとなく周囲を見回し、後ろの席に座っていた優しそうな女性を見た。するとその高齢の女性は、私が何も言わなかったのに察してくれて、「十三湖。」とひとこと、あたたかい津軽の言葉で、教えてくれた。

小泊が近くなり、ドキドキしてきた私は、その女性に、今度は「越野タケさんって知ってますか?」と尋ねてみた。いま思えば、そんな質問をいきなり見知らぬ他人に投げかけるのもどうかしているのだが、当時の私は、太宰に関してだけは貪欲で大胆で、幾度となく平気でそういう行動をとっていた。呆れられたことは何度もあったと思うけれど、心中眼中太宰のみ(笑)、あまり気にしなかった。

思い立って突然下曽我に出かけて、駅員の人にいきなり「太田静子さんの家はどこですか?」と聞いたこともあった。「そんな人は知らないよ」という素っ気ない返事だったが、そういう答えにも一向に動じることなく、知っている人は知っている、分かる人にはわかる、それを信じて、自分の勘を頼りに太宰ゆかりの様々な場所を訪ね歩き、色々な人と出会ってきた。そして実際に貴重な話を伺えたことが、何度も、あったのだ。

バスの後ろの席のその女性は、「タケさんの隣に住んでいましたよ」と話してくれた。火事になった話をしてくれた。小泊で何度か、大きな火事があったそうだ(この話は、タケさんの息子さんからも聞いた)。その時は、ちょうど太宰とタケさんの像が出来上がった時期で(記念館はまだ無かった) 、「そっくりな顔の像がありますよ」と。もうこの女性にとっては、越野タケさんは、『津軽』に描かれた子守りのタケではなく、日常を共に過ごした身近なご近所さんなわけで、「そっくりな顔」という言い方が、なんだか可笑しかった。

バスを降りてから、「あとで像のところに行くね」と言い残してその女性は去って行った。人と人の些細な口約束、どこまで本気なのか分からないような約束、そういうものを守ってもらえるのか、ということに多少神経質であった当時の自分は、その女性が本当に来てくれるかな、単なる挨拶だったのかな、とぼんやり考えながら像の前で待っていたのを覚えている。その像は、再会した太宰とタケの心象を見事に表していて、私の心を強く打った。そして、バスの中で会ったその女性は、来てくれたのだ。

ひとしきり、『津軽』に描かれた太宰とタケの再会の場面などの話をして、像の前で別れる時、写真を撮らせてもらおうとカメラを向けたら、「いやだぁ…」とその女性は、はにかんだ。カメラの前に、わーっと人が集まってくる、ずっとそんな世界で生きてきた自分にとって、その姿は、とても新鮮だった。

戦時下で、美しい宴のような運動会が行われていたという小学校の校庭に行ってから、越野金物店を探して、キョロキョロしながら歩いていると、行き交う人(それは本当に数人なのだが)皆が、声をかけてくれた。どこに行くの?何を探しているの?と。東京で道を迷っていたって、誰も声をかけてくれない。田舎のあたたかさに触れ、津軽での人とのふれ合いが、様々なことに対して神経質になっていた当時の自分にとって、どんなにかあたたかい気持ちをもたらしてくれたか、はかり知れないのだ。太宰のおかげで出会うことのできた津軽を、心から好きになった。

この道を、同じ道を太宰が辿ったのだと思いながら、もう本当にドキドキしながら、私は初めて、越野金物店を訪れた。

お店には、タケさんの息子さん(美治男さん)がいた。最初の印象は、ちょっと厳しい感じのする人だった。また太宰ファンが話を聞きにきた、と何となく嫌そうな素振りで、私もあえて、タケさんの質問は、しなかった(私から何か聞く前に、息子さんが、話さないと言っていた記憶がある。何か誤解されたようなことがあって嫌だったとか、そんなことを言っていた気がする)。他愛ない話をしたのだろう。息子さんは、郵便物の宛先に、「小泊、越野金物店」と書いただけで、郵便物が届くのだと教えてくれた。私は、越野金物店に来ることができて、満足だった。

別れ際、タケさんの息子さんが、越野金物店の熨斗のかかった箱入りの爪切りをくれた。奥様が、古くなっていたその熨斗を外して私に渡そうとしたのを制止して、(太宰ファンは、この熨斗こそ喜ぶのだ)ということを、よく理解している人なのだ、と感じた。私の宝物のひとつだ。

太宰ゆかりの地は、もう全国、ほとんど全ての場所を巡ったように思うけれど、私が一番、太宰の面影を感じられた場所が、この時に訪れた小泊の竜神様だった。もうそこは、太宰とタケが桜の中を歩いていって、そしてタケが堰を切ったように話し始めた、あの小説の場面の息遣いが聞こえてきそうな場所だったのだ。

数年後に小泊を訪れた時には、竜神様の周囲の樹木が、すっかり刈り取られてしまって、竜神様は、もう「きれいに」整備されてしまいショックだった。そして美治男さんは他界していていた。いま小泊の記念館で観られるビデオに、整備される前の昔の竜神様の様子が記録されている。(ほんとうは、あのまま、残して欲しかったな…)