『空中の茱萸』 荒川洋治

空中の茱萸

一見、脈絡のない文章を、それは彼の「詩」なのだが、なぜ読み続けることができるか。
頭半分、それを考えながら、ぐいぐい、読み進めていった。

「詩は個人のもの、散文は皆のものです」と何度か、荒川さんの講演会で聴いた。
その言葉は、昔のわたしの頭に残り、何回目かのサイン会で荒川さんに、
「最近、詩は個人のもの、という意味がわかるようになってきました」なんて伝えたことがあった。
それは本当に私もそう思ったからなのだが。

それを聞いた荒川さんは、「あ、そ」なんて、簡単な、そっけない返事を返してくれて。
でもそれを伝えられたことはちょっとばかりの自分の満足で、こうして何年も経ったいまも、こんなふうに覚えている。

久し振りに彼の詩集を読み返し。読み返しなんだけど、新たに読んでいて
いまのわたしの頭で、いろいろに考えてみた。

詩は個人のもの。
だからこんなにぼんやりして、でも確実に離さず、わたしの心を捉えるのだ。

読みながら、大好きだった荒川さんの話の言葉を、思い浮かべながら彼の詩の言葉に重ねる。
「みなさん、愛されていますか〜」と投げかけられた言葉。
推していた蜂飼さんのこと。凝った装丁の彼女の詩集。
昔の文学作品を紹介しながら、戦争中、裸の女を先頭にして戦場の男たちを歩かせた話。

結局は、死と、生と、愛と、性と、そんなようなことが、柱のように、樹木のように
ひとの暮らしや社会や歴史のなかにあって、その周りを、いろんなふうに、折ってみたり、
蹴とばしたり、でも、横目で見過ごしたりしながら、いきていくのだろう。

その柱のような樹木のようなものが、この本にはずっと、常に、根を張っていて、
きっとだからこの詩集は読めるのだ。なぜか、読み通せるのだと、
これが今の私の感情です。

「海老の壁」より
どんな言葉もなぐさめにはならない。「どんな人の言葉も、こちらの言葉になれば」力をなくす。特によろこびにはならず、とりわけ静けさにも高ぶりにもならず、それでも言葉は必要とされていく。歩いていく。なぜこの場所では「革命が起きないのだろうか」。血が沸き、海老が躍っているというのに! 儀礼の場でこそ砂嵐は立つはずなのに。記者・編集者は言葉を残す。それを静かに見つめる。ぼくは「ぼくについて」であるように煩悶する。ひとがひとのために残していく言葉はわずかなものだ。だがこれからも言葉で、ひとは語っていく。

美川町令嬢」より
人間が誰のためにでもなく自分のために/自由になるときのようすは心地よいものだ/そのためにも/一対の男が坂のそばを通らなくてはならない