池田晶子さん

先日放映された奥山貴宏さんの番組の感想を池田晶子さんが『週刊新潮』に書いていると知ったので、雑誌を購入。コラムは「人間自身」というタイトルで、1ページの連載もの。考えさせられることもあったが、疑問に思うことも多かった。少し書いてみたい。

私の友人が池田さんのファンで、過去に2-3冊の著書を読んだ。読んだ本の内容は、面白く思えたところもあり、共感できないところもあったという印象。近しい友人なので、ずいぶん前になるが、この考え方には同感できないと、友人相手に議論をふっかけて、無口な友人が余計に押し黙ってしまったこともあった。

コラムのタイトルは、「見られて死にたい」。まず「ブログ」について、「個人のあられもない内面を、得体も知れない誰かに向けて吐露したいというその心性が、理解できない。気持ちが悪い」と述べ、「この場合、この人がそこで吐露しようとしているのは、生きるか死ぬか、どうなるかの話である。そういう個人の大事なことは、他人に報告するより先に、自分で考えるべきことではなかろうか」と続く。

まず前半について、池田さんがご自身の著書を、「個人のあられもない内面」ではない、とハッキリ考えているのだな、と思う。哲学者ですからね。そうでなければ、著書のある人間が、「得体も知れない誰かに向けて吐露したいというその心性が、理解できない。気持ちが悪い」と書くのは、つじつまが合わないから。後半については、共感できなくもないが、「すべき」というほどのことではないだろうと思う。それこそ、「個人的」なことだから。

「番組で観る限り、案の定、そういう内省的な言葉は一言も語られていなかった」というのはどうだろう。「内省的な言葉」って何? 奥山さんが奥山さんの頭と心でつむいだ言葉は、内省的とは言えないのかな? テレビで紹介された彼の言葉を、全て記憶しているわけではないが、「生きる、死ぬ」ということを、奥山さんはしっかり考えていたと私は思う。

「自分が死ぬという人生の一大事において、なんでカッコいいこと、他人に見せることが優先されるのだろう」とある。奥山さんにとっては、「カッコよくありたい」というのが、自身を支える力だったとも思う。誰に迷惑をかけることでもない、その人の価値観なのだから、私は悪いとも思わない。人の心を支える価値観なんて、ささいなこと、小さなことも含めて、いろいろあるんじゃないかしら。

人は人生で一度しか死ねないのである。死ぬということは、人が本質的にものを考え始める絶好のチャンスなのである。死とは何か、自分とは何か、宇宙があるとはどういうことか。

「本質的にものを考える」というのは、どういうことを言っているのか、ということを置いておいて、私は基本的に、この考え方には共感する。そのうえで、奥山さんは死を目前にして、「ものを考え」ておられましたよ、と言いたい。彼の最期が、「見て見て、オレを見て!」というスタイルであったと、それを見て池田さんは、「ひどく空しくなった」と書く。そして・・

その人生で、この人は、自分を生きたことになるのだろうか。生ききったように見えて、じつは生き損なったのではなかろうか。

「自分を生きる」ということは、人それぞれ。池田さんの考える「自分を生きる」が、必ずしも他の人にとってもそうだとは限らない。これほど千差万別で、全てを知ることなど不可能な、ひとりひとりの人生において…。そして、「じつは生き損なった・・・」とは、ひどい。他人の人生について、誰かにひどく危害を及ぼしたわけでもない人の人生について、どうしてこういうことが言えるのだろう。

ネットに対して以前から批判的な池田さんは、最後にこう結ぶ。「パソコンに向かって内省するなど、どだい無理に決まっているのである」。