『ファンタジーの世界』佐藤さとる

ファンタジーの世界 (講談社現代新書 517)
先日、児童文学作家、佐藤さとる氏の訃報に接して、ある方が本書について書いておられ、私も興味を持って読んでみた。絶版なので、高値で購入するか借りるしかないのだが、素晴らしく興味深い本だった。是非、復刊を希望したいところ。
自分が何かものを書くときに、大きな影響を受けていると感じる作家を三人挙げるとすれば(おこがましくも)、太宰治井上靖、そして佐藤さとる、なのだ。この三人の作家は、幼少期から思春期に繰り返し読んだ作家であって、決して意図したわけではなかったのに、何か自分の身に沁みこんだ「癖」のようなものを未だに感じることがある(それは全く、自分の幸福な思い込みなのだが)。私は随分前にそれに気がつき、三人が三様に素敵な作家であることを嬉しく思った。それは今好きな作家を三人と問われて挙げる顔ぶれとは異なるのだが、意識せずとも、自分の書き言葉や書き方の癖となって、いまも日々常に表れているように感じる(全く幸福な人間です、笑)。佐藤さとるは、私にとって、そういう、特別な作家なのだ。

私が子供の頃に愛読したのは、佐藤さとる著『だれも知らない小さな国』から始まる、コロボックルシリーズだ。確か、小学校の図書室で借りて読んだと思う。学校の図書室には、ボロボロになった人気の本と、あまり手を触れられていない綺麗な本があったが、この本は人気の本だった。一度読み終えても、何度も何度も繰り返し読んだ。年をまたいでも(つまり、低学年も高学年も)繰り返し読んだ記憶がある。いま私の手元には数年前に頂いた氏のサイン本がある。

だれも知らない小さな国』は、何度も書き直されて、3年半かかって完成された。昭和33年のことだ。最初の読者は、出版社のタイピストだったという。そのベテランのタイピストが、「すごくおもしろくて、つい先を読んでしまって、手がお留守になる」と話したそうだ。昭和44年、新装版出版時の著者の言葉。

正直にいって、このとき(最初の私家版が出たとき)は喜びよりもなによりも、はげしい虚脱感があった。心の中が、からっぽになったようだった。(中略)とにかく、この作品は大げさでなくわたしの青春の”思いのたけ”がつづられているように思う。そして、”思いのたけ”をのべるような質の作品は、一生に一つしか書けないのではないかと、つくづく考える。

以下、多くなりますが、本書からの引用を続けます。

「最高の遊び」より
ファンタジーを創るのは、…遊びの精神が根本である。(中略)しかし遊びの精神といっても、ふわふわの浮かれた気分とはかなりちがう。ファンタジーを創り上げようとするときの創造再生作業は、生半可な態度では行えない。大げさにいうと、必死でとり組むべきものなのだ。はじめは、とりとめもない空想から出発しても、それらを心の中からとりだして、醒めた頭で組み立て、創造者に似た立場で物語世界を創る遊びは、遊びの中でもほとんど最高の遊びである。もともと命をかけても惜しくないほどのものなのである。(中略)
潜在意識にとどくほどに心底深く思いこんだものだけが、物語ににじみ出てくる資格を持っている。それらは、ファンタジーを創ることに没頭し、必然性とその中にある意外性を純粋に追求していくとき、潜在意識から物語の展開にくっついて一緒にとりだされてくる。そういうのでなければ本物ではない。

七面倒くさいファンタジー論も、外側からファンタジーを理解する手だてとしては一つの有効な方法にはちがいない。しかし、はじめに論理があったのではない。はじめにあったのはただの空想である。それも、他愛のない白昼夢の断片である。こうなると他愛ない空想を私は嘲うことができない。これらがうまく積み重なるときは、人生や世界を独自な目で見るようになり、いつかファンタジーを生むことさえできるからである。

空想とは単なる願望的思考で、次元の低い想像といったが、次元が低いからといって役に立たないというわけではなく、それどころかよくも悪くも空想は人の運命にとって舵輪のような役割を果たすだろう、というのが私の仮説だ。空想の断片が潜在意識に蓄えられて、人間のさまざまな決断に内部から根本的な影響を与え続けていくだろうと考えるからである。ファンタジーを創るというのは、そういう空想の持っている機能の、一つの応用にすぎない。(中略)
はじめは単純な願望から生まれた逃避的空想であっても、つねに想い続けていけばかならず表面に出てくる。実人生での決定、選択場面で、本人が迷えば迷うほど、日頃の空想がものをいう。また、そうした選択の関門をくぐるたびに、空想そのものも現実から逆に刺激を受けて、より現実的な想像に変わり、願望から希望へ、そしてより具体的な目標へと変質していくことも多いにちがいない。こういう性格の目標のことも、一般に「夢」といっているのは、至極妥当なような気がする。すべてははじめに空想ありき、といえる。

著者は、ファンタジーを創るのに基本となる五つの条件を挙げる。これは私たちが「しあわせに生きるために」と置き換えても良さそうなもので、創造者でなくとも共感できることが多いのではないだろうか。

第一は想像力が豊かであること。(中略)だれの心の中も、広がりと奥行きは底知れないほどのものだと思うが、暗くて見通しがきかないのでは狭いのと同じだ。心象世界を照らす光は想像力である。ファンタジーの素材となる空想を蓄えるにも、また、最後の詰めの段階で物語を徹底的に追求して、文章に置きかえていくときにも、豊かな想像力がものをいう。
第二には、文章力をつけること。(中略)ただ、かならずしも名文である必要はない。作者の伝えたいことがら、情景、心理を、明確に抵抗なく伝えられればいい。むやみと感情過多になったり、詩的表現に傾いたりするのは、かえって説得力を弱めて邪魔になるばかりである。その意味からも、ファンタジーは完全に散文芸術であるといえる。発想はもちろん詩的であっていいが、表現としては、論理の通った、リズム感の正しい、平明な散文で書かれるのが最高である。
第三には、確かな人間観、世界観を持つこと。これは、何をするにも基礎工事のようなものだから、人生について、人間について、人間の作る世界について、一つの意見を持つように心がけなくてはならないだろう。そして、その意見を修正してふくらませて、変えていくことを、怖れないようにしなければならない。変わらない意見を持ち続けることも大切だが、それらを変えていくことの方がいっそう大切だろうと思う。そのためには他人の意見をよく聞き、読むことだ。
第四に、旺盛な好奇心を持つこと。これは遊びの精神といってもいいが、好奇心は知識欲、創造欲の源泉でもある。字句通りに考えると、「めずらしいことや変わったことを好む心」だが、ファンタジー創りの場合は、何を「めずらしいこと」「変わったこと」と考えるか、が問題である。万人が好奇心を持つようなことにも、もちろん敏感に反応できなくてはいけないが、一般には気がつかないようなことの中にも、めずらしさや興味を発見したい。そういう、いわばマイナーな好奇心を持てるようでないと本物の遊びの精神は生まれない。それが、おのおのの好奇心に個性を与えていくし、ひいては人間観、世界観にも個性と独自性を強めていくにちがいないからである。
第五に、根気だ。「才能とは情熱が持続すること」といういい方もできるほどで、はじめはまるで才能がないようでも、その仕事をあきずに続けようとする情熱が消えなければ、それがその仕事にふさわしい才能である。

本書では、「文章を書く」という行為についても、具体的に様々に述べられる。深く共感できることも多い。

文章を書く、という作業は、思考そのものを記録していることで、よりよい文章を書こうとする努力は、よりよい思考を追い求めていく烈しい精神集中作業である。「書くことは考えること」といわれるのはその意味で真実だが、私としてはまだものたりない。「書かなければ本当に考えていることにはならない」くらいなものだ。(中略)
無理やり予定した結論へ持っていくと、文章はどこかがおかしくなる。明らかな矛盾が起こってしまい、その矛盾を修正していくと思いがけない正しい結論に到達して、自説が一新したりもする。文章を書くということの貴重な機能である。ソラで考えているだけではこうはうまくいかない。

われわれは言葉によって考えを発展させるからだ。言葉が思考を生み、その思考がまた言葉を生む。思考に力があるように言葉にも力があって、この力は創作中にも具体的に働く。書かれた文章が内容を展開させたり修正させたりするので、作者自身までしばしば意表をつかれる思いがする。
このことを「手が考える」という。もちろん手が考えるわけはなく、文章によって表現され、すでに定着されたいくつかのことがらが、知らず知らずのうちに頭のどこか底のほうで複雑に結びつき合って、一つの解答を提示してくるのだろう。だが、こんなことは書いていないとけっして起こらない。よりよい文章を書こうとする努力がともなってはじめて起こるので、それでこのことを「手が考える」というのである。文章には、あるいは言葉には、そういう貴重な力がある。作品を書く作業とは、じつはこの力をできる限り引きだすことだといっても過言ではない。

作家は自分の感動を、できるだけ忠実に伝えるように作品化する。したがって、自分がおもしろがるのがまず第一である。もともと人間は、だれよりも自分のことがよくわかる。もっといえば、人間は自分以上に他人を知ることはできない。文学とは人間を描くことなのだから、つまりはもっともよく知っている自分を描くことになる。自分を切りきざんで、物差しにしたり分銅にしたりするのである。
自分を描いて、他人のためになる、などとはじめから思うのは、どう考えても思い上がりではないか。しかも、どこに住んでいるのかさえ決められない「子供群」のためになるかどうかなどを、作家が心配するようでは、まずたいした作品は生まれないといっていい。ただし、こういったくだらない心配と、先に定義で述べた「子供にもわかるようにする」技術的配慮とを、混同しないでもらいたい。(中略)そして、作家が責任を持つのはそこまでである。そうやって書かれた作品が、子供のためになろうがなるまいが関係ない。あとは作品が勝手に生きたり死んだりする。作家としての私は、およそ以上のように児童文学を考えている。

子供を軽視してはいけません。子供はほとんど発言しませんが、本物を嗅ぎ分ける鼻を持っています。ほんとうにいい作品だったら、子供たちはかならず読み継いでいきます。バカ売れはしないとしても、消えることはないと思いますね。そして、もしその子が二十五年たって、本を読むような子を持つころに、ふたたび同じ作品に出会えば、今度こそだまってはいないでしょう。私はこの二十五年を、児童文学の読者のサイクルと考えていますが、児童文学のほんとうの評価は、おそらくそのころに定まるのではありませんか。