企画展「小説は書き直される―創作のバックヤード」安藤宏氏トークイベント

日本近代文学館にて、昨年末から開催されている2017年度冬季企画展「小説は書き直される―創作のバックヤード」に関連して、展示の監修者である安藤宏氏によるトークイベントに参加した。

安藤宏氏による、今回の展示の巻頭文を、以下引用させて頂きます。

「小説は生きている」
今回の展示は、われわれが日頃、当たり前のように慣れ親しんでいる名作が、どのように書かれ、活字化されるのか、さらにそのあともいかに読み継がれ、書き直されていくのかという、時間の歩みを追いかけていくことにねらいがあります。
作者はまず小説の着想をメモや草稿の形にし、何度も書き換えながら浄書していきます。その際、さまざまな資料が参照されることになりますし、著名な古典が翻案されることもあるでしょう。一個の小説は、先行するテクストとの無数の見えざる「対話」から成り立っているわけです。原稿用紙はまさに生みの苦しみの現場で、書き直しや削除の跡から、一個の虚構世界が構築されていくプロセスをたどることができます。活字化は小説が密室から社会に羽ばたく決定的な”事件”ですが、小説の一生はここで終わるわけではありません。さまざまな評価にさらされる中で、作者は改訂の機会あるごとにこれを書き換えていきます。小説は作者と読者の「対話」を通して成長を続けていく生命体であり、作者がこの世を去った後も、さらに後世の人々によって育まれていく文化資産なのです。
われわれが何気なく手にしている一冊の文庫本が、実は長い時間の連なりの中にある一つの「顔」にすぎないこと、その背後には創造にまつわる様々な苦しみや喜びがあり、読者との「対話」の産物であることに新鮮な驚きを感じて頂ければ、これに過ぎる幸いはありません。

当初、今回の展示を「小説の一生」と題することも検討されたが、”一生”とすることによって、終わりがあるような印象を与えてしまうため、「小説は書き直される―創作のバックヤード」という表題に改めたという。安藤宏氏は、「小説は変貌する」「生き物みたいに姿を変える」と表現した。

安藤氏は、作品が活字化される前後で、大きく二分する。活字化することによって、作品は初めて二人以上の読者を得ることになり、また、初めて世に出ることによって作品が社会性を持つ、という観点から。そこに大きな意義の違いを見出すのだ。

活字化された後も、作家によっては改訂を続ける。これは、いくつも有名な話があるが、未完のまま刊行され、20年後に完成した志賀直哉『暗夜行路』、36年間に亘って改訂が続いた川端康成『雪国』、初稿から56年後になって改訂が行われた井伏鱒二山椒魚』など。『山椒魚』の最後の改訂については、当時「作者が最良の読者であるとは限らない」とした批評を読んだ記憶がある。おそらく井伏による最晩年の改訂は、後の刊行物にほとんど反映されていないと思う。

『雪国』の改訂も、世に広く知られているだろう。実際には川端は、冬に越後を訪れたことが無かったと聞くし、また断片的に発表されていった作品の題名も、様々に変化している。安藤氏は、川端が少しずつ作品を発表し、それに対する同時代評を読みながら、小説を書き続けていった可能性を指摘した。作品は最終的に、最高の形に結実したと私は思っている。

現在では、著作権が明確で、作者以外が書き直すということは、認められないが、かつては師弟関係の間での書き直しも見られた。泉鏡花の作品を大幅に改訂した尾崎紅葉の、作品に対する「せめぎ合い」の話も面白かった。しかし作者本人にとっては、たまったものではなかったかもしれない。

また、編集者とのやり取りによって、作品が創作されていく過程も興味深い。『中央公論』の名編集長であった滝田樗陰(ちょいん)は、佐藤春夫室生犀星を見出し、「家の前に滝田の車が止まると一流作家の仲間入りができる」とまで言われた人だが、作品にも手を入れた。また河出書房の名編集者、坂本一亀(かずき)の名前も挙がった。坂本龍一氏のご尊父であり、安藤氏のご近所にご自宅があるそうだ。

戦中・戦後を通しての改訂。これはGHQの検閲によるものだが、この検閲の記録は、米国メリーランド州プランゲ文庫に保存されており、その記録のコピーが配布された。坂口安吾『戦争と一人の女』には、大幅に線が引かれて、”Delete”と大きな字で書き込まれている。墨塗りした教科書を彷彿とさせる。

展示には、原民喜『夏の花』の「削除ノート」とする自筆ノートがあった。これは、原民喜が自ら、GHQに配慮して作品を一部削除した際に、削除部分を手書きでノートに書き残したというものだった。自らの分身のような作品を、己の意に反して削除していくとき、そのやるせなさ、作品への愛おしさを、彼の丁寧な筆跡に感じて、強く心に残った。

改訂の道程は、作家の逝去により終わるわけではなく、作家の死後、「どの版を完成稿とし、後世に残していくか」という問題が発生する。フランスでは、最終の改訂版を完成稿として残すことが一律に決まっているそうだが、日本では作品によって異なるという。太宰治『佳日』は、戦中・戦後の改訂があったが、世に残されたものは、戦中の版だ。この改訂を読み比べると、確かに太宰の瑞々しさは、前作の方に表れていて、こちらの版が世に残されたことを嬉しく思った。

宮沢賢治がポケットに折り曲げて入れていたという『銀河鉄道の夜』草稿の展示もあった。作家の息遣いが感じられるような生々しい記録だ。文学作品が、最初は作家によるメモ書きや草稿から始まって、次第に構想が固まり、未定稿、定稿、初出誌、初収刊本、再録本、全集という流れの中で姿を変える道程に、ロマンはある。けれど安藤氏が、ある現代の芥川賞作家との対話の中で聞いたという「ある程度の構想はあるが、書いている最中はトランス状態、神がかった状態にあって作品が生まれていく」という話も興味を惹いた。作家の書き直しの跡を辿ることは興味深い。でもそれで全てが分かるわけではないし、作家の創作の源泉、内面の真相、発想の過程は永遠の神秘なのだ。そして安藤氏ご自身が強調されたように、この先、作家の草稿等が新たに見つかり、そこに新発見があったとしても、作品としての価値や評価は変わらない、そこに揺るぎは無いのだ、ということも真理だと感じた。