前川喜平さん講演会「憲法とわたし」(於:セシオン杉並ホール)

午後7時開演のところ、6時過ぎに到着してギリギリ会場に入ることができた。ホールに入れなかった参加者は、楽屋で聴講した。会場まで来ても、聴くことができずに帰った人も多かったと思う。盛会だった。

前川さんは、登壇してまず最初に「一年経ったら、私の顔と名前は忘れてください。私は芸能人でも政治家でもないので」と。電車に乗っていると時々声をかけられるそうで、「頑張ってくださいとか、応援していますと言われることもあるが、何を頑張って何を応援されているのか分からない」と笑いながら言った。

ご自身の学生時代のことから。東大の3年次から、あまり大学に行かなかったそう。本郷三丁目の駅まで行って、大学に行く途中にある喫茶店で過ごしていたとか。一時期「前川はついに姿を消した」という噂が流れたという。前川さんは、お寺巡りをしたり、テニスをしたり、真面目な学生ではなかったが、大学6年次より、憲法だけは真面目に勉強したそうだ。就職は、ビジネスの才能はなさそうだと思い公務員を考え、その中でも人に関わる仕事がしたいと、当時の文部省に入省した。

入ってみた省庁は「そんなに楽しい場所ではなかった」が、憲法のことは常に念頭に置いて仕事をしていた。憲法第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」において、これを遵守するように仕事をしてきたと。そして「天皇は一生懸命、憲法を守っているように見えますが、その後にいくと…どうでしょう」と言った。国家公務員や教員の政治活動は制限されているが、個人の尊厳としての自由もある。

2015年9月18日、国会前で安保法制に反対する大規模なデモが行われた日、当時、審議官(各省官僚ナンバー2)だった前川氏は、終業後に歩いて国会前へ向かい(審議官の仕事は余裕があるそうで)、シールズのメンバーと共に声をあげた。「憲法守れ」「集団的自衛権はいらない」などのメッセージを、ラップのリズムに乗せて伝える才能に感心したそうだ。デモに行ったのはその時1回きりで、翌年には「めでたく事務次官になった」という。

教育や社会権に関する憲法の各条文を挙げながら説明してくださり、憲法については「色々な国民がそれまでの歴史の中で獲得してきたもの、人類が勝ち取ってきたものであり、人類の成果である」という説明が印象的だった。海外における事務次官の集まりでは、南アフリカの大臣と同席し、南アの憲法制定の際、世界中の憲法を取り寄せて審議し、日本の憲法を高く評価したと話していたという。憲法は、人類が発展させ、獲得してきた道程であると強調した。

前川氏は、現政権の政策の全てに反対しているわけではなく、奨学金制度の制定については評価もしている。憲法第26条、教育を受ける権利「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定めているが、現在でも義務教育を受けられなかった人たちが百数十万人近く存在していて、前川氏の夜間中学での活動につながっていったようだ。現在でも、講演をしていない時は、厚木と福島の夜間中学で教えているそうだ。

厚木の夜間中学では、一度も学校に通ったことが無いという70歳代の男性がいて、夜間中学に来て初めて鉛筆の持ち方を知り、「右、左、上、下」といった漢字から学習しているという。その男性が一度、ペットボトルに書かれている漢字を書きたいと言って、そこには「綾鷹」と書かれていた。前川氏は「綾鷹」のへん、つくり、部首に分けながら教えて、その男性は「綾鷹」と書くことができた。前川氏は、「この字を書きたいと思って書いていること、学びたいことを学び、出来たことを喜ぶ場に居あわせることが楽しい」と言った。福島の夜間中学でも「不可欠」という言葉の意味を問われ、「可決」との違い、「可決の反対語は否決であること」などを伝えて、この時も「ああそうか、と理解してもらえる、その場に居合わせることが楽しい」と語った。

現在の学校教育が画一的で、学生服にしてもセーラー服にしても、運動会の集団行動にしても、軍隊を模していること。しかし一人ひとりを異なる存在として認めることが大切と。もしも前川さんが、教育を受ける権利を定めた憲法26条を改定するとしたら、「すべて国民は」という文言を「すべての人は」または「何人(なんびと)も」に変えて、国籍を問わず教育を受ける権利を定めたい、と言った。そして「その能力に応じて」という文言を、「その個性に応じて」または「個性と能力に応じて」というように改定したい、と話した。

現政権の改憲案にも触れ、前川氏は、教育勅語をスラスラと暗唱しながら、個人の尊厳を軽視するこれらの条文を批判した。「批判するには、勉強しなくちゃならないでしょ」と笑っていた。また、高村光太郎の名を挙げて、彼が戦後、戦争に加担した自己の責任を問いつめていった生き方を振り返り、詩集『典型』より表題作について触れた。

今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。/小屋にいるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。

三代を貫く特殊国の/特殊の倫理に鍛へられて、/内に反逆の鷲の翼を抱きながら/いたましい強引の爪をといで/みづから風切の自力をへし折り、/六十年の鉄の網に蓋はれて、/端坐粛服、/まことをつくして唯一つの倫理に生きた/降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。

前川氏は「愚劣の典型」という言葉について、光太郎が自身を愚劣としながらも、それが「典型」であったこと、つまり自分一人が愚劣だったわけではなかったと作者が投げかけたことを指摘し、「三代を貫く特殊国の/特殊の倫理」について、光雲とその親から代々続いた天皇崇拝の歴史、そしてそれを素晴らしいと思ったかつての自分の心理を振り返って反省したのだと解説した。

前川氏は最後に、「無知が不安になり、恐怖になり、憎悪になり、悪化していく」「無知が戦争を引き起こす」、 だからこそ「お互いを知り合うこと」「まず声をかけてみること」「お互いの人間性を知ること」が大事であり、そして現代が1920年代から30年代にさしかかる時期の状況と似ていて、同じ歴史を繰り返さないために、過去の歴史、近現代の世界の歴史を学ぶことが非常に大事だと講演を結んだ。

講演後、前川さんの著書へのサイン会があった。まさかそんなことがあるとは知らず、私は大変嬉しく、列に並んでサインを頂いた。 前川さんに「綾鷹の話がとても良かったです。高村光太郎の話も」とお伝えした。そして、頑張ってとも応援していますとも言えないなぁと思って、「お身体を大切に」と言った。前川さんは、どなたに対しても気さくな笑顔で、とても懐の深い方だと、色々な人とのやり取りを眺めながら思った。そしてこれは、1月の講演会でも感じたことだけれど、教育の力を信じ、かつては行政官として、現在は個人として、情熱をもって教育に取り組んでいる方なのだと強く感じた。