『茶色の朝』

茶色の朝

連休明けの朝、電車のなかで読んだのです。
簡単な話でした。そして、悲しく、苦しく、怖い話でした。
考えることは、とても大切なことだと思うのです。
ひとがひとを苦しみに追いやることを、やめていくために。

本書、高橋哲哉氏の解説より

ファシズム全体主義への批判の本だといっても、『茶色の朝』には、声高な告発や糾弾の調子は微塵もありません。語り手の「俺」とその友人シャルリーの生活に起こった変化が、静かな坦々とした筆致でつづられているにすぎません。でも私たちは、この静かで坦々とした寓話のなかでこそ、ファシズム全体主義の何が本当に恐ろしいのかを、たぶん実感することができるのです。

ファシズム全体主義は、権力者が人びとを一方的に弾圧し、恐怖政治をしくことによって成立するだけではありません。とくに、いちおう「民主主義」を制度として前提する社会では、はるかに多くの場合、人びとがそうしたものの萌芽を見過ごしたり、それに気づいて不安や驚きを覚えながらも、さまざまな理由から、危険な動きをやり過ごしていくことによって成立するのです。

茶色の朝』は、私たちのだれもがもっている怠慢、臆病、自己保身、他者への無関心といった日常的な態度の積み重ねが、ファシズム全体主義を成立させる重要な要因であることを、じつにみごとに描きだしてくれています。

茶色の朝』を迎えたくなければ、まず最初に私たちがなすべきこと―それはなにかと問われれば、思考停止をやめることだと私なら答えます。なぜなら、私たち「ふつうの人びと」にとっての最大の問題は、これまで十分に見てきたとおり、社会のなかにファシズム全体主義につうじる現象が現われたとき、それらに驚きや疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらをやり過ごしてしまうことにあるからです。
やり過ごしてしまうとは、驚きや疑問や違和感をみずから封印し、それ以上考えないようにすること、つまりは思考を停止してしまうことにほかなりません。「茶色の朝」を迎えたくなければ、なによりもまずそれをやめること、つまり、自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にし、なぜそのように思うのか、その思いにはどんな根拠があるのか、等々を考えつづけることが必要なのです。

本書は、1998年、フランスで出版された。同国で100万部を超えるベストセラーになったという。日本での初版は、2003年。 私が今回、amazonで発注してから受領まで、数週間を要した。日本でも今、よく読まれているのだろう。
下記リンク先に全文の和訳があります。こちらは出版されている和訳とは異なり、おそらく独自に邦訳を作成されたのだと思います。感謝いたします。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf