ドナルド・キーンさんと『源氏物語』

いま、源氏物語を読んでいます。ドナルド・キーンさんが戦争中、源氏物語を読むことを慰めにしていた、そのことをふと思い出して、読んでいるのです。

ドナルド・キーンの東京下町日記」2013年11月3日東京新聞より
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2014040902100025.html

当時、十八歳の私はナチス・ドイツの脅威に憂鬱だった。ナチスポーランドに侵攻し、フランスも占領していた。第一次世界大戦で出征した父が大の戦争嫌いで私も徹底した平和主義者。「war(戦争)」の項目を見たくないので百科事典の「w」のページは開かないようにしていた。ナチスの記事が載った新聞を読むのは苦痛だった。
そんなある日、私はニューヨークのタイムズスクエアでふらりと書店に入った。目についたのがウエーリ訳の『源氏物語』。日本に文学があることすら知らなかったが、特売品で厚さの割に四十九セントと安く、掘り出し物に映った。それだけが買った理由だった。
ところが、意外にも夢中になった。暴力は存在せず、「美」だけが価値基準の世界。光源氏は美しい袖を見ただけで女性にほれ、恋文には歌を詠む。次々と恋をするが、どの女性も忘れず、深い悲しみも知っていた。私はそれを読むことで、不愉快な現実から逃避していた。

ドナルド・キーン著『私と20世紀のクロニクル』より

やがて私は、『源氏物語』に心を奪われてしまった。アーサー・ウェイリーの翻訳は夢のように魅惑的で、どこか遠くの美しい世界を鮮やかに描き出していた。私は読むのをやめることが出来なくて、時には後戻りして細部を繰り返し堪能した。私は、『源氏物語』の世界と自分のいる世界とを比べていた。物語の中では対立は暴力に及ぶことがなかったし、そこには戦争がなかった。主人公の光源氏は、ヨーロッパの叙事詩の主人公たちと違って、男が十人かかっても持ち上げられない巨石を持ち上げることが出来る腕力の強い男でもなければ、群がる兵士の一人をなぎ倒したりする戦士でもなかった。また源氏は多くの情事を重ねるが、それはなにも(ドン・ファンのように)自分が征服した女たちのリストに新たに名前を書き加えることに興味があるからではなかった。源氏は深い悲しみというものを知っていて、それは彼が政権を握ることに失敗したからではなくて、彼が人間であってこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだった。

東日本大震災を経験した日本、その日本と共にありたいと日本人になったキーンさん。いまの日本の政治をどんな風にみているだろう、どんな思いでいるだろうと考えると、胸が痛い。