『人生を肯定するもの、それが音楽』 小室等

人生を肯定するもの、それが音楽 (岩波新書 新赤版 (888))
10月25日のコンサートで、小室等さんにサインを頂いた本。岩波新書のお堅い表紙が付いているけど、とても読みやすい。冒頭の言葉。

「人生を積極的に肯定する情熱がない限り、歌は生まれないだろうと思う」
武満さん*1が語ってくれたこの言葉をぼくは忘れることはないだろう。人生をどんなに否定的にとらえた歌があったとしても、創作衝動なくしてその歌が生まれ出ずることもなく、創作衝動は人生の肯定なくしては生じ難い。人生を肯定するもの、それが音楽であるということを、武満さんはぼくに教えてくださった。

「ことばの師」として谷川俊太郎さん、「音楽の師」として渡辺貞夫さんを挙げる。音楽について。

メソッドを勉強しなくていいか、といえば、そんなことはありません。問題はそれにとらわれてしまうかどうかでしょうね。とらわれてしまうと、秀才として非常に優秀なものはつくれるかもしれないが、なかなか人を感動させる表現にたどりつくことはできない。自分がやりたいことが何かというのを身体がわかっていれば、メソッドの勉強は表現の幅を広げることにつながります。

知的障害者と呼ばれる人たちが暮す施設に行って、演奏した時のこと。同じ質問を何度も繰り返し尋ねる男性がいたという。

彼には彼なりの何らかの根拠がある表現なのだ。その表現をたまたまぼくにぶつけているとするならば、それは何なのだろうか、と思いはじめたんですね。結局、それが何だか、わかるものではありませんでした。・・でも、わからなかったから無意味だったとは思いません。「どうしようとしているのだろうか」と想像しながら、それに向かい合おうとしているのと、「この人はまったくわけのわからないことを言っている」と思って、ともかくやりすごそうとする、というのでは、その人の存在の受け取り方が全然違ってくる。そしてそれは、自分自身の存在に関わってくるのです。

ぼくのステージは、静かに聴いてもらうようなパフォーマンスが多いのですけれども、ではそういうコンサートには障害を持った人は聴きたくても一生来られないのかといえば、それもおかしな話です。しかも、すでに言ったように、こちらが得るものも多いですし。そこで、ぼく自身の心構えとして言えば、その人たちが来ていることによって、ぼくがどう対応できるか、そしてそれを通じて、自分がどう変われるか、そういう自分こそがおもしろい、それを楽しもうと思っているわけです。

それにしても、「知的障害者」という言い方、実際に付き合えば付き合うほど、抵抗を感じないわけにはいかない。知的とは何かを問わなければなりませんが、少なくとも知的障害者とよばれているほとんどの人は、じつに、根源的なものを表現している人たちとも言えるのです。「知的障害」と言うほかに言いようがないということで、しょうがないことなのかなァ…。

ひとくちに知的障害者といってもいろいろなタイプの人がいます。すごく社交的な人もいるし、知的障害者と呼ばれている人たちは、少なくとも、いわゆる健常者と呼ばれている人たちより圧倒的にピースフルであるとぼくは感じている。

私は、小室等さんの障害者に対する考え方を、とても正確だと感じる。

*1:武満徹さんのこと