石井桃子展ー本を読むよろこびー(神奈川近代文学館)

戦争末期、宮城県へ移住して農業を始めた石井桃子さん。さまざまな面で「開拓者」であり、かつ素朴な生活者でもあった。移住の折のことを綴った書簡の展示があった。

藤田圭雄(編集者、児童文学者)宛書簡より
戦争が終わる前から、ウソでかためた世界がいやになり、友人といっしょに百姓になろうと思って、この山の中に来ました。最初の鍬入れをしたのが、偶然にも去年の8月15日。はじめは、百姓屋に間借りをしていましたが、12月の廿日に掘立て小屋に入りました。(1946年10月16日付)

百姓という仕事は、たやすいことではない。働いても働いてもたべられない職業である。私たちは、骨身にこたえて、それをさとった。けれども、物を生みだすということのたのしさもまたさとった。
「わが百姓生活の弁」より

児童文学作品「ノンちゃん雲に乗る」は、最初、戦地にいる友人を慰める手紙のようなつもりで書かれ、友人たちの間で回覧された後、出版に至った。

藤田圭雄宛書簡より
ノンちゃんもやはり私の生命のいとなみの一つなので、皆が寝てから、暗いランプの下、ノンちゃんと差し向いの夜学がはじまったのです。そして原稿をおとどけしてから長い半年がたちました。ノンちゃんは独りでどんな旅をしているやらと案じながらも、きっと迷子になることはないと信じておりました。(略)
ノンちゃんがどんな人の心に住んで、その人の死ぬまでいっしょに育ってくれるか、私はノンちゃんを見送りながら、ノンちゃん、しっかりやるのよ、上手にお話しするのよと、最後の注意を与えております。

石井桃子さんは、101歳の長寿をまっとうされた。自らの人生を「幸福」とは思っていないが、「幸運」であったという言葉を残している。

いろいろなことがあった。戦争前があり、戦争があり、飢えを知り、土地を耕すこともおぼえ、それから、戦後があった。それをみな、私のからだが通りぬけてきた。細く長い道があった。
「かつて来た道」より

もしも戦争になったら。と数か月前、現実に考えたことがあった。荷風のようにどこ吹く風、時勢に反して遊んで暮らそうかと思ったり、谷崎のように一心に、自分が信じ愛する世界にひたり込もうかとか、キーンさんのように文学に打ちこみつつ、時勢とともに生きることを避けられないだろうと思ったり。石井桃子さんは、要請された時局に見あった作品をどうしても書く気になれなかったという。こんな言葉を残している。

戦争の間、いま思えば、私は自分で意識した以上に、生理的にも息苦しさにくるしんだらしい。よく鉢の金魚のようにアップアップなって、どこかで大きく息のつけるところはないかと思ったものだった。

戦いながらも、激しさを他人に向けることなく、信ずる道をあゆみ、身の回りの生活や気の合う人たちを大切にしながら、しなやかに生きた素敵なひとだったと思う。

どうしたら平和のほうへ向かってゆけるだろう、と、人間がしているいのちがけの仕事が、「文化」なのだと思います。